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横浜市歴史博物館

横浜市営地下鉄センター北駅そばの横浜市歴史博物館へ。前々高秀市長の直筆という石碑、ということは…10年近く前に建てられたもの?バブリー、箱物感覚のものです。どれだけ予算を使ったのかな。維持もたいへん。そのわりに入館者は限りなく少ない。駐車場担当は2名。

常設展のみ鑑賞。400円。マスコットのレックル。

横浜の原始〜古代〜中世〜近世〜近現代パーツの資料を展示しています。

近世

家庭では箱膳、どぶろく。屋根の修復は近所の人の助けを借りて。

 

横浜はどこにでもあるような田舎だったわけで、興味は文明開化以後の横浜ならではの華やかなりし時代以降。そのさきがけとして、神奈川湊は、1392(明徳3)年の文書に、六浦湊と共に房総、伊豆、さらには東国や伊豆方面と盛んに交易を行っていたと記されています。江戸時代に入ると神奈川湊は陸上の道との結節点という立地条件に加え、全国レベルで整備された流通体系として、江戸湾(現東京湾)有数の湊として発展。愛知県知多郡内海を拠点とし活躍した内海船との交流が明らかに。内海船からの売り込みは、米が主で、その他に糠、塩、砂糖、油、粕、荒物。買い付けは相模国産の大豆や小麦。糠は神奈川-町田-八王子ルートで、塩は神奈川-江戸湾-利根川河口-利根川ルートで北関東の内陸部へ。

泥亀新田…金沢区役所所在地の地名は古くからあったのですね   クリック拡大
横濱館 勧工場(かんこうば)

震災復興記念横浜大博覧会パンフレット1935(昭和10)年

第一回生活必需品購入通帳1943(昭和18)年 家庭の鉄銅をお国へ
昭和期
衣料切符
昭和期
関外    

開港百年祭パンフレット1958(昭和33)年

 

横浜開港、生糸、茶が輸出されました。生糸商標、茶商標など。

[横浜の波止場]

中央に波止場。のちにイギリス波止場と呼ばれ、荷役のため2つの突堤がある。大きさは幅約18m、長さ約108m。この突堤には外洋を航行する大型船が直接接岸できないため、船は沖合いに停泊し、貨物は荷足船や瀬取船と呼ばれる小船に積み替え運ぶ。貿易の事務を行う運上所は、現在の神奈川県庁のある場所に置かれていた。
横浜での貿易は年毎に発展し、当初の波止場では荷役が追いつかなくなる。そこで元治元年(1864)年、現在のマリンタワーより少し大桟橋寄りに新たな波止場が設けられる。当初の波止場の左方に新たに2つの突堤が設けられる。この波止場はフランス人居住区の前に造られたことから、フランス波止場と呼ばれる。

慶応2(1866)年に関内地区で大火があり、日本人町の3分の2、外国人居留地の3分の1近くが消失。この復興の際、波止場の様子は大きく変わる。

波止場の設備が拡充され、2つの突堤は波の影響を受けることなく荷役ができるように延伸される。先端が食い込むようカーブを描いた独特な形の突堤は、のちに「象の鼻」と呼ばれるように。運上所(3)は海面の一部を埋め立て、再建。火災防止のため石積みの外壁に、建物中央に通り抜け可能なホールを設け、これまでの日本建築にはない西洋の型式が取り入れられる。運上所の海側には、貨物の一時的な置き場所である上屋(4)2棟が建てられる。また、石積みの保税倉庫(5)が、運上所の両側や焼失した運上所跡に何棟も造られる。

(1)イギリス波止場…あいかわらず大型船は直接接岸できず、荷役は小船を介して行われる。左の突堤は、その形状から「象の鼻」と呼ばれる。突端先端の灯竿は、英国人技師ブラントン設計。

(2)イギリス領事館…変則的な3本の塔が特徴。現在横浜開港資料館があるところ。

(3)運上所…貿易の事務を取り扱う役所で、現在の税関。

(4)上屋…船積み前の貨物や陸揚げした貨物を、一時的に置いておく建物。側面に、広い大きな屋根を支えるための木組み。

(5)保税倉庫…輸入手続き中の貨物を保管する倉庫。現在神奈川県庁の敷地。

(6)日本大通り…英国人技師ブラントンが、防火帯を兼ねて設計した街路。砕石をローラーで固めたマカダム舗装。

 
 
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